ノバク・ジョコビッチ ストーリー プロ転向~転機となった生涯ワーストの試合
19歳でプロに転向したジョコビッチは、2006年にワウリンカとクロアチアOPの決勝で対峙していた。しかし、突如襲ってくる発作や体の痛みに、しばしば悩まされていた。
その発作とは、鼻をつままれ、頭に不気味な音が響き、胸が締め付けられ、足が動かなくなるというようなもの…つまりは、とうてい、まともに試合ができる状態でなくなるというものだった。
その状況は、ある人は喘息というし、またある人はアレルギーと呼び、別の人は調整不足と呼んだ。
※若かりし日のノバク・ジョコビッチ
この症状には、早くも2005年には悩まされていた。153位で初めて臨んだ全仏OPでは、第8シードのギジェルモ・コリアから第1セットを奪い善戦するも、発作が出て棄権せざるをえなかった。この時はコリアに、「体調管理ができていない」と言われた。
また、初めての全米OPでは昏倒し、4回のメディカルタイムアウトを取らざるを得ず、猛烈なブーイングにさらされた。対戦相手のモンフィスには「あいつは何かを変えた方が良いな」と言われた。
しかし、ジョコビッチは、練習や走り込み。ウェイトトレーニング、メンタルトレーニングなど、テニスに捧げる生活を毎日おくっていたのだ。にもかかわらず、体調管理ができていないとは、考えにくかった。
ともかく、ジョコビッチは優勝しては、欠場、厳しい戦いに勝利しては、次戦を棄権……という繰り返しの日々を送った。
ジョコビッチはメンタルトレーニングなども取り入れ、自然と練習量も増えていき、1日14時間、何らかの形でテニスに関することをやるようになっていた。
その努力は実を結び、2008年の全豪OPでツォンガを破って初優勝して、初めて4大大会でタイトルを獲得した。ただ、翌年の全豪OPでは発作が出てロディック戦を棄権し、嘲笑されてしまった。時にトップ選手から、「怪我ばかりして、漫画のようだ」と言われたことさえあった。
そして、人生最悪の試合と振り返る、2010年の全豪OP準々決勝を迎えた。対戦相手のツォンガは、90キロながら筋肉の鎧をまとい、その巨体に似つかわしくない俊敏性を兼ね備えていた。225キロの高速サーブ、体重をかけたリターンはスピードに加え、トップスピンがかかり、ラケットを手から叩き落としそうになるほどの威力があった。
ツォンガ戦に際して、ジョコビッチはベースライン付近で、相手を走り回らせた。ジョコビッチは得意のフットワークとコートカバーリング能力を発揮し、ストロークを展開。
しかし、試合の途中で、またもや発作が出てしまった。この発作は治まらず、試合の最後には、連続のダブルフォルトでの敗北となった。しかも、最後はトスしたボールが2度とも、ラケットに触れずに負けたのだった。
結局、この試合は、6-7、7-6、6-1、3-6、1-6で敗れた。
ジョコビッチにとって、試合中に起こる発作を何とかしなければいけないのは明確だった。しかし、どんなに猛練習しても、どんなにメンタルトレーニングを積んでも、一向に改善しなかったのだ。なぜなら、間違っていたのは食事だったからだ。そして、この食事を改善することで、今度は生涯最高の時を迎えることになるのである。
→次回のノバク・ジョコビッチ・ストーリーは『オープンマインド…食事改善~生涯最高の瞬間』をお届けします。お楽しみに!
ジョコビッチ・メモ
ジョコビッチが4大大会に出始めたのは、2005年からになります。それから、数年間という短い期間で、トップ選手への仲間入りをはたしました。
2005年度末の世界ランキングは83位、2006年は16位、2007年から2010年は3位、そして、2011年には、ついに1位の座に上り詰めます。
それから、2013年に2位に落ちるも、2014年に1位に返り咲いてからは、圧倒的な強さを誇る、絶対的な王者になりつつあります。
ちなみに、2006年の全仏OPでは早くも、ベスト8に進出。2007年の全米OPでは準優勝。2008年の全豪OPでは、ついに四大大会初優勝を遂げています。
ノバク・ジョコビッチ ストーリー
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