フィリピンの英雄・6階級制覇のマニー・パッキャオは、最も背が低いプロバスケット選手!?
2015年5月2日(日本時間5月3日)にフロイド・メイウェザーとラスベガスで対戦することが決まっているマニー・パッキャオ。両者のファイトマネーを合わせると実に300億円以上だと言われる世紀の一戦となります。このページでは、フィリピンの英雄、マニー・パッキャオについて色々なエピソードもふまえて紹介しています。
マニー・パッキャオ
フィリピンミンダナオ島出身
1978年12月17日生まれ
169㎝
リーチは170㎝
6階級制覇しているプロボクサーだが、他にも政治家、バスケットボールの選手兼コーチといった肩書も持っている
鋭い踏み込みから繰り出す左ストレートが最大の武器で、豪快なKO勝利や番狂わせ、名勝負を演じてきた人気ボクサー。圧倒的なスピードとスタミナを誇り、好戦的なスタイルが大きな人気を集めている。また、経験を重ねるごとに右リードジャブ、右フック、フットワークなども身につけている
ライトフライ級でデビューし、スーパーウェルター級までの11階級を渡り歩き、メジャー世界タイトル6階級制覇を成し遂げた史上2人目のボクサーである(WBA,WBC,WBO,IBF)
パッキャオの特徴は、タイトルにこだわるよりも、超一流の選手を多く撃破してきた点にある。マルコ・アントニオ・バレラを始め、バレラ、リッキー・ハットンといった世界最強のボクサーを倒してきた
最初は「The Destroyer(破壊者)」というニックネームがつけられたが、後に大物食いをするという意味で「Pacman(パックマン)」という愛称が定着した
マニー・パッキャオの経歴
母親と2度目の結婚相手である父親との間に生まれた6人兄弟の4男として生まれたのは1978年です。野菜農家であるパッキャオの家はとても貧しく、一日一食という日もあるほどでした。両親は後に離婚し、パッキャオは貧困のため中学校を中退し、路上でパンや花を売ったり、建設作業員などをして家計を助けていました。
1995年にボクサーとなったパッキャオの最初のファイトマネーは2ドルだったといいます。しかし、ボクサーとして目覚ましい活躍をみせ、貧困からも脱しました。後にジンキー夫人と結婚し、3人の息子と、2人の娘がいます。ちなみに、パッキャオは飲酒癖、浮気癖、ギャンブル好きという3拍子がそろっており、時に離婚の危機に発展したことがあります。
ジンキー夫人
出典:https://ph.celebrity.yahoo.com
ボクサーとしての経歴
パッキャオがボクシングを始めたのは8歳の時で、草ボクシングで少量のお金を得ていたようです。14歳でマニラに行って、路上で寝泊りしながら、ボクサーとしての生活に入りました。その後、フィリピンナショナルアマチュアボクシングチームに入り、政府から生活の保証を受けられるようになりました。
アマチュア成績は64戦60勝4敗となっています。
1995年にライトフライ級でデビュー。
1998年にはフライ級で、寺尾新(唯一、パッキャオと対戦している日本人)を1RKOで破っています。同年WBC世界フライ級王者を獲得。
1999年にWBCスーパーバンダム級インターナショナル王座を獲得。
2001年にはIBFスーパーバンダム級王者となりました。
この後はアメリカに主戦場を移し、フェザー級、スーパーフェザー級で、バレラ、モラレス、マルケスといった選手と数回にわたり死闘を繰り広げます。この頃になると、パッキャオのファイトマネーは億単位になっていきます。
そして、2008年にはスーパースターのデ・ラ・ホーヤと対戦が実現。体重差があり無謀とまで言われた対戦でしたが、パッキャオが8RTKO勝ちをおさめ、1100万ドルものファイトマネーを手にしました。
この後も、有名選手との対戦を多くくり広げ、2005年についにメイウェザーとの対戦が組まれました。
オフリングエピソード
バスケットボール
出典:http://www.dailymail.co.uk/
パッキャオはバスケットボールが非常に好きで、トレーナーのフレディ・ローチが反対しているにも関わず、プレイしています。そのバスケット好きが興じ、起亜ソレントといプロバスケットのコーチにまでなってしまいました。さらに、この話には続きがあって、同年のドラフトで11巡目に指名され、フィリピンのプロバスケットボール史上、最も年をとり、最も背が低い選手となったのです。当然ですが、怪我をしたら大変なので、日本では考えられませんし、他のスポーツでもほぼありえないと言えるでしょう。
ローチは開幕戦のみということで出場を許可しましたが、10日後には再び出場しています。まさに、規格外の選手です。
この他のエピソードとして、フィリピン軍と紛争でもめていた反政府組織が、パッキャオ戦がある時には、「一緒にパッキャオを応援すべきだ」という理由で、一時戦闘を見合わせて、テレビで応援していたというエピソードもあります。まさに、フィリピン国の英雄なのです。