片山右京物語『道』 「道はまっすぐなだけじゃない。曲がりくねっていたり、坂があったり、この先に何があるのかは、立ち止まって見ていただけではわからない」
片山右京
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1963年に生まれた片山右京は未熟児でした。
右京という関西風の名前は、叔父である慶応大学の教授・片山左京にちなんだものです。
医者である父親は、食事の時に口をきくことさえ許さない厳格な父親で、傍らには木刀を置いているような人でした。
ちなみに右京は未熟児で生まれたこともあり、体が小さい子供でした。
でも、元気だけは人一倍。
とにかく『道』が好きな子供で、どんどん道の先を進んでいくのが好きでした。
「道はまっすぐなだけじゃない。曲がりくねっていたり、坂があったり、この先に何があるのかは、立ち止まって見ていただけではわからない」
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中学時代の右京は背は低いものの、運動神経がきわめて高く、陸上部に所属していました。父親が山が好きで、その影響で右京もよく山に登り、自然と足腰が鍛えられていたのです。
高校の時には当時の流行りの影響で髪を赤く染めていました。しかし、不良ではなく生徒会長をやるような不思議な生徒だったようです。
この時、右京はバイクに魅せられ、免許を取って2か月後には200キロを出して走っています。スピードに魅入られたのはこの時からです。
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18歳になると、早速、普通自動車の免許を取りました。
ぎりぎりまでブレーキを踏まず、アクセルをできる限り踏んでいたので、コーナーでよくひっくり返っていました。
右京はよく峠道で10年落ちのトヨタのカローラで、腕に自慢のあるGT車と勝負をしていました。そして、車の性能は圧倒的に劣るものの、常に大差で勝利していました。
高校三年の時には富士スピードウェイで走るために、150万円の中古のレーシングカーを購入しました。維持費、修理代などを含めると、年間で300万円がかかります。
右京は車を購入した筑波サーキットの工場で、同時にメカニックのアルバイトとして働き始めました。
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1984年には鈴鹿に移動します。
しかし、最初は住む場所もなく、ライトバンの荷台に寝泊りしていたこともあります。
この頃の右京は、昼間には世話になっている社長のガレージで溶接などのメカニック、夜はスナックでアルバイトをしていました。とにかくお金はすべてレースにつぎ込んでいたのです。バイト先のスナックではしばしば、つまみで出すせんべいを失敬して、夕食にしていました。いつも、生活は苦しく、腹をすかせていたのです。
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唯一のごちそうは、電気ストーブで焼くロールパンでした。
貧乏な右京は車の性能も当然、パワーもなく最低という状態でした。そのため、ストレートでは全く抜けないため、コーナーでぎりぎりまでブレーキングを遅くする右京のドライバーテクニックでカバーしていました。
右京はこの年、FJ選手権で優勝を飾りました。
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1985年になると、右京にも転機が訪れます。日産のハセミ・モーター・スポーツからF3選手権に参戦することになったのです。
ここでも、ワークスドライバーではないため、車は自前で、性能は劣るものでした。成績はこの時、総合で6位でした。
この頃、右京の目は遠く、ヨーロッパに向いていました。
F1の世界にはアイルトン・セナ、プロスト、マンセルなど、素晴らしいドライバーが出現していたのです。
こうと決めたら動く右京。まずは、偵察とばかりに成田空港へ!
エールフランスのカウンターの受付の女性に言いました。
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「パリまで大人一枚」
……スタートはともかく、この瞬間に片山右京のF1への道がつながったのです。
to be continued
※こちらの記事は右京の著書「負け、のち全開」を参考に、構成しています。
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