さぼりのマツと呼ばれた男 怪物伝説・第4章の幕開け
第1章 さぼりのマツ 怪物伝説の始まり
(小学生の時の松坂大輔)
東京都江東区で育った松坂大輔。
「大輔」という名前は、1980年代に甲子園で旋風を起こし、アイドル的存在だった荒木大輔にあやかった名前だった。
5歳から小学校3年生までは、剣道をやっていた。
小学校3年から地元のクラブチームで野球を始めた。
中学生時代のチームメイとには、小谷野栄一(現オリックス)がいた。
出典:http://geino-hot.blog.so-net.ne.jp/2014-11-24
(甲子園での松坂。伝説はここから始まった)
高校は名門、横浜高校に進学する。
しかし、入学してしばらくの間は練習嫌いで有名であり、「さぼりのマツ」と呼ばれていた。
出典:http://ameblo.jp/tabi3bito/entry-11860054340.html
だが、2年生の夏の大会で暴投し、さよなら負けを喫してから人が変わり、猛特訓。
超高校級の選手に変貌をとげ、「平成の怪物」と呼ばれるようになった。
武器はMAX152キロの豪速球、鋭いスライダー、カーブ、チェンジアップだった。
1998年の第70回センバツ高等野球大会では、数々の伝説的な試合を行った。
準々決勝のPL学園戦では延長17回、250球を投げて勝利した。
翌日の明徳義塾戦では疲労から先発ができず、1イニングの登板だった。
チームは劣勢だったが、見事な逆転劇をはたし、松坂大輔だけのチームではないことを証明した。
出典:http://www.asahi.com/koshien/senbatsu2012/photo/meishobu/19980409A00342061GOC.html
そして、決勝戦の京都成章戦。松坂大輔は先発で登板し、嶋清一以来、2人目の決勝戦でのノーヒットノーランをやってのけた。
実に59年ぶりのことだった。
この時、松坂の怪物伝説が始まったと言える。
横浜高校はこの大会などを含め、44連勝を記録している。
なお、チームメイトには、小山良男、後藤武敏、小池正晃といったプロに進む選手がいた。
この年のドラフトで、松坂は西武に1位指名されて入団した。
第2章 松坂、エースとなる
出典:http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BE%BE%BA%E4%C2%E7%CA%E5
1999年に日本ハムとのデビュー戦を迎えた松坂は、最速155キロの速球を披露した。
この試合、8回2失点という見事な活躍だった。
特にこの試合、日本ハムの主力バッター、片岡篤史を豪快な三振に切ったシーンはデビュー戦で最も鮮烈なものとなった。
また、この年の5月にはオリックスに所属するイチローとの初対決も大きな話題になった。松坂はイチローを3打席連続で三振にきってとった。この時から、イチローからライバルとみなされるようになった。
この時松坂は「プロでやれる自信から確信に変わりました」という印象深いコメントを出した。
松坂はこの年、16勝5敗という新人らしからぬエース級の結果を残した。
そして、ボストンに移籍する2006年までで、10勝以下のシーズンは1度だけという素晴らしい成績を残したのである。
出典:http://mainichi.jp/graph/sports/matsuzakadaisuke/016.html
西武での松坂の最終年には、ターニングポイントになる大きなイベントがあった。第1回となるWBCである。
この大会で松坂は決勝戦のキューバ戦を含め、3試合で勝利をあげ、MVPに選ばれた。
出典: http://mainichi.jp/graph/sports/matsuzakadaisuke/026.html
優勝を飾ったシャンパンファイトではシーズンが始まるにも関わらず、「今年最後という気持ちで投げた」と語った。それほど、松坂にとって日本代表は価値のあるものだったのである。
松坂はこの年のオフ、60億円で交渉権を得た大リーグンボストンレッドソックスに移籍することになった。
第3章 栄光と挫折
2007年、大リーグのデビュー戦で、7回を6安打1失点、10奪三振で見事勝利を飾る。
デビューの年の松坂はワールドシリーズでも日本人初の勝利をあげ、優勝に貢献した。シーズン成績は15勝12敗だった。
2008年は与えた四球数がワーストだったが、被打率は1位だった。この年は18勝という最高の成績をあげた。
2009年は第2回WBCに出場、準決勝戦ではドリームチームを結成したアメリカを破る大活躍だった。日本代表は決勝でキューバを破り優勝。松坂は再びMVPとなった。
しかし、WBCの日程はシーズン前に組まれており、選手への負担が大きいとされていた。松坂は結果的に、シーズンオフに休めずに肩を痛めてしまった。この年、大リーグでは4勝どまりだった。
2010年も故障者リストに入ることもあったが、9勝をあげて復調見せた。
2011年は5月に故障者リストに入り、手術を受けることになった。
2012年は契約最後の年になった。活躍が期待されたが、1勝しかあげられずFAとなった。
出典:http://www.gettyimages.co.jp/detail/147165502
(日本球界では見られない松坂の姿があった)
2013年はインディアンスに移籍し、3勝3敗だった。
2014年はメッツでマイナー契約からスタート。しかし、後にメジャー契約を勝ち取り、主にリリーフとして結果を出した。この年も3勝3敗。
このように、松坂は日本代表の試合に強行出場し、けがをしてから成績を残せなくなった。しかし、多くの日本人が、誇りや心意気、意欲を持って出場し、本場アメリカを破った第2回のWBC出場のことを忘れはしないだろう。
出典:http://blog.livedoor.jp/i6469/archives/36267221.html
そして、松坂は日本に帰ってきた。
出典:http://www.gettyimages.co.jp/detail/494322851
第4章へ続く……