NFL 偉大なるQB マニング家 三世代の物語
ペイトン・マニング……NFL史上最高のクォーターバック(QB)の 一人です。リーグMVPを歴代最多の5回獲得しています。
イーライ・マニング……その偉大なペイトン・マニングを兄に持ちながら、自らも、リーグでの優勝、MVP受賞も経験しています。 この兄弟の活躍だけでも、大きな物語になりますが、マニング家の物語は、もっと波乱に満ちています。これから、その物語を始めましょう。
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※左がペイトン、真ん中がアーチ―、右がイーライ。3人とも、NFLの花形であるQB。
NFLで共に活躍するマニング兄弟の名前は、アメリカで知れ渡っています。しかし、この偉大なる兄弟には、兄がいることは知らない人は多いかも知れません。
偉大な二人の弟を持つ人物こそ、クーパー・マニング。三兄弟の長男です。おもしろいことに、この三兄弟はそれぞれが個性的で、性格が異なっていました。
長男のクーパーはひょうきんで陽気、二男のマニングは真面目 、三男のイーライはあまり気持ちを表に出さない……と三兄弟三様でした。
クーパーとマニングは年齢が近く、とにかく兄弟喧嘩が絶えませんでした。 しかし、この三兄弟は、みなアメリカン・フットボールに興味を持ったのでした。 なぜなら、父親であるアーチー・マニングは、NFLセインツのQB として、活躍したプロ選手だったからです。
このアーチー・マニングは、14年間のプロ生活では、139試合で35勝しか上げられませんでした。所属していたセインツは、あまり有力な選手がいないことも理由の一つでした。
しかし、このアーチーは成績以上に、人々の記憶に残るQBであり、人気者だったのです。 というのも、今ではアメリカの大学のアメフト熱は、プロをもしのぐほど人気があります。その先駆け的な存在であり、テレビメディアで大学のアメフトが放送されるようになったころに、アーチーは活躍したからでした。
アーチーが在籍した大学は、ミシシッピ大学でした。この大学で、アーチーは素晴らしい活躍をなしとげ、地元の英雄となりました 。その人気ぶりは熱狂というものであり、ミシシッピを代表するスポ ーツ選手といっても過言はないほどだったのです。
そんな人気者となるアーチーですが、彼には暗い影がつきまとうことになりました。 なぜなら、アーチーの父親が、彼の大学時代に自ら命を絶ってしまっ たからです。アーチーの父親は農業に関わる会社を経営していましたが、その時には不作、会社の行き詰まりなど、悪いことが重なってしまったのです。
アーチーは大学をやめて働くことも考えましたが、 母親や姉の意向を受けて、大学での生活を続けたのです。その結果、 プロで14年間の活躍を続ける成功をおさめることができました。
また、アーチーは大学時代の同級生と結婚して、三人の子供に恵まれました。 アーチーという人物は、妻に言わせると「愛情が深く、思いやりのある人物」となります。ペイトン・マニングにとっては「大親友」であり、長男のクーパーにとっては「アーチーが父親で幸運だった」ということです。
アーチーは決して、子供に物事を強いることはしませんでした。アーチーは 自分の父親のこともあり、家族、子供との生活をとにかく大事にしました。 彼はビデオカメラを回すことも好み、クーパー、マニング、イーライがアメフトで遊ぶ様子を、よくカメラに収めていました。
このように子煩悩なアーチーは、子供をかわいがり、尊重していました。
ただ、アーチーは「自分で決断したことは、最後まで成し遂げなさい」… と子供に教えることを忘れませんでした。
アーチーの3人の子供たちは、彼の能力を受け継ぎ、運動神経、センスにも秀でていました。そして、父親を尊敬しており、自然にアメフトを愛するようになったようです。
長男のクーパーと二男のマニングは同じ高校で、大活躍しました。 そして、長男のクーパーは、あこがれていた父親と同じ、ミシシッピ大学に進みました。
しかし、クーパーにとってあこがれたいた舞台での活躍は、病気によって打ち砕かれました。体調を崩して検査を受けたクーパーは、アメフトなどやれるような身体ではなかったのです。
クーパーは大学に入学したとと同時に、夢でもあるアメフトの道を絶たれたのでした。 この時、普段は新人に目を向けないような4年生の先輩も含め、大学 のチームメイトとなるはずだった部員たちは、拍手をもって、クーパーを送り出したのです。その思いやりや親切な忘れらない行為を、クーパーは涙で語っています 。
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幼いころから常にアメフトを共にし、高校では同じアメフト部で仲間として戦った弟のペイトン・マニングは、大きなショックを受けました。しかし、ペイトンは「僕を通して、兄もアメフトをやっている」 と語り、さらにアメフトに打ち込むようになったのです。
実際、アーチーの才能と能力を受け継ぎ、それ以上にNFLで実績を残したのがこのペイトン・マニングでした。
若いころ、ペイトン・マニングは、父親の大学時代のラジオ実況が録音されたテープを熱心に聞いては、父親の試合での活躍に心を躍らせたのです。
当然ながら、このペイトン・マニングがミシシッピ大学に入学して、活躍することに、地元の期待が集まりました。 進路で悩むペイトンに、父親であるアーチーは決して、自分の意見を押し付けることはありませんでした。あくまでも、ペイトン・マニングの決断を尊重し、サポートすることを決めていたからです。
結局、ペイトンはミシシッピ大学ではなく、テネシー大学を選びました。 この決断に対して、ミシシッピでは失望がおこり、その怒りの矛先は父親であるアーチーに向かったのでした。しかし、ペイトンの決断が正しかったことは、後の活躍を見れば明らかでした。
そして、その5年後にはイーライ・マニングもまた、ペイトンと同様に進学先をどこにするかで、注目が集まる状況になりました。 でも、この時もまた、アーチーは同様に、イーライの決断を尊重することにしたのです。
イーライの決断は簡単でした。イーライはミシシッピ大学に入学することを、決意したのです。
「父親から、ミシシッピでの居場所を奪うことはできない」とはイーライの言葉です。冗談でもあり、的を得た言葉でもあるかもしれません 。
とにかく、これでアーチーは故郷で敵視されることはなくなったのは確かでした。そして、イーライもまた、兄同様に大学から大活躍をする選手となり、成功をおさめていきます。
結局、アーチーの態度はいつでも変わることはありませんでした。つまり、元プロ選手である前に、一人の父親であることを重要視しました。そのため、イーライが大学時代、コーチ陣のミーティングに招かれた時には、このようなエピソードがあります。
コーチ陣は元プロ選手であり、ミシシッピで英雄視されるアーチーに敬意と気も使い、戦術のアドバイスを求めるために、チームのビデオを見せたのです。しかし、アーチーは途中で眠ってしまいました。
つまり、アーチーは今では父親であり、大学のコーチ陣に対し、口をはさむことを嫌ったのです。実際、アーチーは、ペイトンの時にも、 一度も自分からコーチに口をはさむことはなかったのです。コーチ 方があまりに何も言わないのを気にして、感想を求めるほどでした。
このように相手を尊重し、自分をわきまえ、謙虚に接する態度こそが 、子供2人を偉大な選手に導いたということになります。
ちなみに、 長男のクーパーは、投資会社につとめています。そのひょうきんで陽気な性格は変わらず、NFLの臨時レポーターを務めたこともあり、ジョークを言って、笑いをとったこともあります。
そして、孫ができたアーチーは、孫にも愛情と尊重の気持ちをもって 、接しているのです。マニング家の伝統は、こうして孫の世代にも引き継がれていくのかもしれません。
※アメフト…アメリカン・フットボールは、アメリカ人にとっては、文化の一つです。カレッジ・フットボールの人気も絶大。プロスポーツでも、最も人気があるスポーツです。NFLの王者を決める試合になると、視聴率50%に上ることもあるようです。