視覚障害マラソンランナー、道下美里 夢はリオデジャネイロ・パラリンピック!
視覚障害がありながら、マラソンに挑戦し続けるランナーがいます。道下美里は3万人に1人の病気で視覚を失う中で、マラソンに自分の役割を見出したと言います。それからは、常に挑戦を続け、自らの記録も更新しています。このページでは、マラソン選手の道下美里について調べています。
道下美里
福岡県在住
1977年生まれ
小さいころはおとなしい性格で、運動音痴だった。
中学時に右目の視力を失う。
その後調理師の免許を取得して働くも、3万人の一人の病気で左目の視力もほぼ失った。
最初は中距離走選手だったが、陸上の先生の勧めで長距離に転向した。
2006年のジャパンバラリンピックの800mで日本記録樹立。
2007年にはブラジル世界選手権で1500m5位。
2008年からフルマラソンに挑戦。
2009年に国際盲人マラソン大会で優勝
2010年にはフルマラソン大会で11位。
2012年に70キロマラソン、100キロマラソンに挑戦して完走している。
2013年には大阪国際女子マラソンで、3時間10分を切る記録を残している。
2014年の防府マラソンでは、2時間59分21秒で、日本記録を更新している
2015年のロンドンマラソン視覚障害女子では、3時間3分で3位に入り、リオパラリンピックの推薦基準をクリアした。
自分に影響を与えた言葉として、金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」という言葉がある。
マラソンについて
※伴走者の堀内と走る道下。ランナーと伴走者をつなぐ紐は「絆」と呼ばれる。後ろには、樋口の姿も見える。
道下美里は、視力を失い、絶望しかけた時があったと言います。当時は運動する機会も減り、何かをはじめないといけないと思い、盲学校に通い始めたました。そこで、目が不自由でも走れることを学んだことで前向きになれたのです。それが、彼女とマラソンとの出会いでした。久しぶりに、風をきって走った時の爽快感は忘れられないと言います。
当時は学校の200mのトラックを10周走るのがやっとでした。しかし、そこから少しずつ距離を増やして、現在では週に5.6回、月に最低300キロは走るようになりました。
マラソンはゴールまでとても苦しいが、達成感が得らることが魅力と語っています。
また、彼女がマラソンをするためには、伴走者が必要になります。ロンドンマラソンに招致を受けた時には、樋口敬洋、堀内規生という2人の伴走者が彼女をサポートしています。その時に、2人が語ったメッセージを紹介しておきます。
”「約2年前、ある大会に出場したいのに伴走者が見つからずに困っている道下さんに出会いました。やる気も実力もあるのに環境が整わないという理由で出られないかもしれない。 非常にもったいないと感じて伴走者に立候補したのが一緒に走るきっかけでした。 日々、練習を重ねて道下さんは大きな夢の入り口にいます。パラリンピックの舞台を掴み取るための第1歩がロンドンマラソンです。道下さんと一緒に走ってたくさん多くの事を学びました。可能性を信じることの大切さも教わりました。 夢を現実にするために!しっかり準備してロンドンを伴走したいと思います。きっと笑顔で皆さんに嬉しい報告ができると信じています。」(樋口)
「たくさんの出逢いに恵まれ、たくさんの人に支えられて生きてきた私達。出逢いが出逢いを生みこうして巡り会った仲間と、決して1人では挑むことのできない世界への挑戦ができることを幸せに思います。全ての巡り会いに感謝し一生懸命楽しんできたいと思います。」(堀内)”
このメッセージの背景には、伴走者などの渡航費用が自己負担という恵まれていない状況がありました。時に道下美里が渡航費として、100万円を自己負担しなくてはいけない時もあったそうです。そのため支援を呼びかけるサイトでの、コメントが上記になります。
出典:視覚障がい者ランナーみっちゃんと伴走者をロンドンマラソンへ!
ちなみに、道下美里は苦しい時でも楽しむことを工夫しているということです。
マラソンを始めることで、人前に立つことが多くなり、役割を見つけることができたとも語っています。そして、具体的な目標を発言することで、多くの人との出会いに恵まれたと語ります。また、「笑顔は出会いのパスポート」というように、マラソン中も笑顔を大事にしているそうです。
夢はリオパラリンピックへの出場で、失敗を恐れずに、挑戦し続けることで可能性を広げられると語っています。
ハンデを抱えながらも、前向きに生きる彼女の姿勢からは、学べることが多いのではないかと思います。
そんな道下美里の情報は…チーム道下 | Facebookに色々と掲載されています。