元横浜4番、3度のトライアウト、波瀾万丈の選手生活を歩んだ古木克明がたどりついた答えとは……
5月16日(土)にTBSのバースデイで放送されたプロ野球第2の人生。このページでは番組に登場した古木克明(34)について調べています。
ドラフト1位で横浜に入団するも、2003年以外は、三振王、失策王と言われることもあり、楽しさを感じることがなかったというプロ野球生活。横浜からオリックスに移籍して、2年後には戦力外通告に…。
しかし、諦めることなく3度のトライアウトを受けた男は、最後にハワイの独立リーグにたどりつきました。そんな古木のプロフィールと共に、ハワイで気付いた彼の言葉なども紹介しています。
古木克明(ふるき かつあき)
三重県松坂市出身
1980年11月10日生まれ
豊田大谷高校2年時に甲子園の1回戦で2打席連続ホームランを放つ。
3年時には、甲子園でベスト4に進出。1回戦では、村田修一、田中賢介を擁する東福岡高校に6対4で勝利。準々決勝では和田毅を擁する浜田高に4対3で勝利している。
高校時代は練習の虫で、バットを抱いて寝たり、道具を大切にする選手としても紹介されている。
1998年に横浜ベイスターズから松坂の外れ1位で指名された。
1999年から2001年はほぼ2軍生活だった。
2002年は後半から起用されて、34試合ながら、9本塁打 打率320と結果を残した。
2003年は125試合に出場して22本塁打、打率208だった。本塁打は多かったが、チャンスに弱く、三振も多かった(リーグワースト2位)。また、失策も多く、守備に難があることが露呈した。
2004年は外野手となり、主に代打として100試合に出場。本塁打11、打率290と結果を出した。
2005年は65試合に出場して、本塁打4、打率248だった。この年就任した牛島監督は守備を重視したため、出場機会が減ってしまった。
2006年は110試合に出場するも、本塁打10、打率252に終わった。
2007年は72試合に出場して、本塁打4、打率247とふるわなかった。この年、大西宏明との交換トレードでオリックスに移籍した。
2008年は1軍での出場が21試合にとどまり、本塁打0、打率222と低調だった。
2009年は1軍出場は9試合のみで、0本塁打、打率231だった。この年、戦力外となり、トライアウトを受けるも獲得球団が現れずに現役を引退した。
格闘家へ転進
出典:http://blog.livedoor.jp/holy1973/
2009年に格闘技の新団体「スマッシュ」に入団。この時は「野球に未練はない。世界を代表する格闘家になりたい」と語った。
2010年は総合格闘家の長南亮とエキシビジョンマッチを行う。また、大晦日に格闘イベント・ダイナマイトでアンディ・オロゴンと対戦するも判定で敗れた。
2011年に海老名義隆と対戦して、判定での格闘家・初勝利をおさめた。
再び野球の道に…
出典:http://blog.livedoor.jp/ggbclub/
この後、格闘家を引退して、野球指導者の道を目指すことになる。理由としては、「格闘技をやっていても野球のことが頭から離れなかった」という点と、「死ぬかもしれないという恐怖に耐えられなかった」と率直に語っている。11月には再びトライアウトを受けた。
2012年には大久保博元が主催の「デーブ・ベースボール・アカデミー」で非常勤講師をしながら、練習を続けた。また、3度目のトライアウトも受けた。
2013年には、独立リーグのハワイ・スターズに入団。4人住まいのシェアハウスでの生活となる。
ハワイ・スターズでは54試合に出場、打率307、2本塁打、39打点を挙げた。
この時のことを古木は、
”「久しぶりの感覚でした。公式戦はオリックスの'09年以来ですからね。草野球の助っ人や、クラブチームの紅白戦とはやっぱり楽しさが違いました。結果を残せたのは、今日の試合が最後になるかもしれないから、悔いを残さないようにとことんやってやろうって思えたこと。少しは精神的に成長できたのかもしれませんね。あ、それと、守備の方では外野がメインでしたが、守りが不安な選手に代わって『お前が守備固めに入ってくれ』とサードを守ることもありました。……凄いですよね。何度かエラーしましたけど(笑)。
野球は楽しいものだということが改めて実感できた。本当に楽しかったですね。あんなに野球が楽しかったのはホームランを打ちまくった2003年以来です。これもNPBにいたままだったらわからなかったのかもしれない。
日本では一個のミスで物凄く怒られて、悩んで落ち込んでいましたけど、本当は誰が何を言おうと関係ないんですよ。野球は失敗するスポーツなんだから、落ち込むことはない。そういう経験から得たことをやっと若い選手にも言ってあげられるようになった。いろんな状況で野球を辞めようとしている若い子に、いろんなことを経験した方が、絶対に人生の糧になると言ってあげられるようになった。」”
出典:「あきらめない男」古木克明が、ついに辿りついた野球人生の境地。
この後、古木は野球選手生活にピリオドを打った。 引退後は宮城県に移住して、プロアスリートとしては初となる復興支援活動を行うスポーツFプロジェクトを2014年1月に設立した。また、事業構想大学院大学では、アスリートのセカンドキャリアの研究などを行っている。
このように波瀾万丈の選手人生を歩んできた古木。一度は、どん底に陥った彼は、「落ち目の時は大変だけど学ぶチャンスでもある。そこでどれだけ頑張れるかですよ。」とも語った。また、野球に関しては「一生、野球と生きていきたい。それだけが確かな夢です。」と話している。