愛情なく育ったスラム出身の元NBA選手が、殿堂入りした時に語った両親への言葉
バーナード・キングはアメリカのニューヨーク市・ブルックリン区出身の元NBA選手です。スラム街にあるアパートで暮らす貧しい家庭で育ち、唯一の娯楽は多くのその地域の少年と同じようにバスケットボールでした。
両親は彼に冷たく、時に厳しく、冷酷な面もありました。彼は「叩かれた記憶はあっても、抱きしめられたり、愛しているという言葉をかけてもらった記憶はない」と語っています。アパートの彼の家には誰もたずねてくることはなく、孤独と共にありました。実際、両親はスクール時代に彼の試合は見に来なかったと言います。
一方で、彼にとってバスケットボールは唯一、そんな辛い環境や状況を忘れさせてくれるものであり、のめりこむのは当然でした。また、スクール時代優勝してトロフィーを持ち帰ると、その帰りになぐられて盗まれてしまう、そんな犯罪と貧しさに囲まれて育ったキング。この状況から抜け出す、数少ないチャンスがバスケットボールだったのです。
左がアーニー・グランフェルド
キングはテネシー大学に才能を認められて入学。最初は注目されていませんでしたが、ピックアップゲームでいきなり20点以上を叩きだし、その才能を証明したのです。さらに、このチームには、ルーマニア移民のアーニー・グランフェルドがおり、二人は看板選手として活躍します。二人に共通するのは勝負への意欲。価値観が重なった二人は、お互いを認め合う存在でした。
スモールフォワードのキングは大学時代、長い腕、クイックスピードなどを武器に得点を量産し、ヒーローとなっていきます。しかし、当時、南部のこの大学は人種差別問題で揺れていました。また、親からの愛情が薄かったキングは、内向的で自分の気持ちを人に話すことをまったくせず、孤独を好む性格となっていました。それは、大学で成功しても変わりませんでした。
キングが唯一気を紛らわせられたのは、アルコールだったのです。しかし、アルコール絡みで問題となり、彼は警察に逮捕されます。その時、キングは銃を持った拳で頭部を殴られました。このことは、彼にとって、生涯忘れられない悲しみ、怒り、恐怖となって残っているようです。
このような状況でしたが、選手としての評価は高く3年生の時にドラフトにエントリーして、ネッツに入団が決まります。
NBA入り1年目にしてキングは、1909得点をあげる活躍をみせます。しかし、アルコールに依存する癖は抜けておらず、さらにドラッグをやっていたのが見つかりチームを退団。彼はNBAに入っても、孤独を紛らわせるためアルコールの力に頼ったのです。
しかし、ついに自分と向き合う決意をし、治療を受けてNBAに復帰。1982年から地元であるニックスに戻りました。すると、1983シーズンには2027得点をあげてオールスターに選ばれるなど大活躍をします。このニックスにはくしくも、アーニー・グランフェルドも所属しており、2人は大学時代同様に息の合ったプレーを見せたのです。この頃には、家も近くに住んでおり、一緒に試合会場に向かう仲になっていました。キングはアーニーを特別な友人と認め、孤独から脱したのです。
この後、キングは十字靭帯断裂という大けがもありましたが、リハビリを重ねて復活。生涯で19665得点をあげたのです。キングはその後、テネシー大学の永久欠番に初めて選ばれました。次に永久欠番になったのが、アーニー・グランフェルドです。アーニー・グランフェルドは、キングスなどのフロントを経て、ワシントンブレッツの社長になっています。
キングは引退からだいぶたった2013年に殿堂入りをはたします。その時、壇上では涙をみせ、「母さん、父さん、僕はやりとげたよ(I Made it)」と語ったのです。それは、めったに心の内を見せることのないキングの心からの言葉だったのです。