48歳で再び現役復帰へ! 中山雅史がJFL・アスルクラロ沼津に入団!
2012年にコンサドーレ札幌を退団して、事実上の引退とみられていた中山雅史。しかし、48歳になった今、再び現役復帰をはたすにいたっています。このページでは、10月17日にTBSのバースデー(17:00~)でも特集される中山雅史について、色々と掲載しています。
中山雅史
静岡県藤枝市出身
178㎝/72kg
1967年9月23日生まれ(48歳)
所属:JFL・アスルクラロ沼津
ポジション:FW
ゴン中山という愛称で知られたサッカー選手である。陽気な性格、熱いプレーで人気を得た。
所属していたジュビロ磐田では、中山隊長という愛称も…。
日本代表としては、フランスW杯、日韓W杯に出場している。
Jリーグでは、最優秀賞を1回、得点王を2回、ベストイレブンを4度受賞した。
静岡県立藤枝東高等学校時代から、エースストライカーとして活躍。
高校2年時には、激戦区である静岡を勝ち抜き、第63回全国高校サッカー選手権大会に出場するも、準決勝でPK戦の末に敗れている。中山は4試合で2ゴールを記録。
1986年には筑波大学に進学し、一時期はDFをやっていた。しかし、先輩である長谷川健太の勧めで、CFに戻った。
1990年にはヤマハ(後のジュビロ磐田)に入社。実業団のサッカー選手と共にサラリーマン生活に入った。
1992年にヤマハはJリーグ入りをはたした。
1997年にはフランスW杯の予選、Jリーグでは磐田の優勝に貢献している。
1998年のフランスW杯は3敗ながら、ジャマイカ戦で日本人初のW杯本戦でのゴールを記録。この試合では得点後に足を骨折したが、最後まで試合に出場。「魂のストライカー」などと呼ばれることもあったが、日本代表にも影響を与えた。
岡崎慎司なども新人時代にサインをもらうなど、あこがれの選手としていた。
この年のJリーグでは4試合連続でハットトリックを記録するなど、リーグ最多記録となる36得点を記録した。
1999年ころから、怪我や故障に悩まされるようになる。
2002年の日韓W杯には、ベテラン選手として代表に選出された。
その後は40歳までジュビロ磐田でプレーを続けたが、2009年シーズンをもって退団した。
2010年よりコンサドーレ札幌に所属するも、膝の手術などもあり、出場機会は少なかった。
2012年には、「サッカーを愛したがゆえに怪我を負ったが、後悔はしていない」と語り、現役引退を発表した。ただ、会見では「第一線を退く」と語り、「引退」と中山自身は言葉にしていない。また、「元気になったらカムバックする」とまで語っている。
引退後はバラエティ、スポーツ、ニュース番組などに出演するようになった。
2015年には山本昌邦が関わっているJFL・アスルクラロ沼津で現役復帰をするに至った(山本はジュビロ時代の先輩)。
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※妻の生田智子
長男ではあるが、姉二人の末っ子である。姉が強かったため、負けず嫌いになった。
中学校時代はサッカー部・合唱部・陸上部を掛け持ちしていた。合唱部では、テノールのパートリーダーを務め、コンクールで入賞するほどだった。
高校の同級生には、スピッツのベーシスト・田村明浩、先輩には俳優の別所哲也がいた。
大学時代には井原正巳と同学年で、切磋琢磨した。一緒にコンビニのアルバイトなどもしていた。
ゴンというあだなは大学時代のものである。「鬼瓦権造」というビートたけしのキャラに、不摂生をして太った中山が似ていたため、呼ばれるようになった。
ジュビロ磐田のチームメイトの藤田俊哉は「他人にも厳しいけれども、自分にはもっと厳しい人」と評価している。
元女優の妻・生田智子は「ああ見えても普通の人間。意外とデリケートだし落ち込む時もある」と語っている。
Jリーグの通算記録は、355試合出場で157得点。
日本代表では53試合に出場して、21得点。
JFL・アスルクラロ沼津
静岡県沼津市を本拠地として、サッカーを中心にしている総合スポーツクラブである。
アスルクラロは「明るい青」を意味する。
1977年の社会人チームとして創設された。
ホームスタジアムは、愛鷹広域公園多目的競技場。
「日本一の富士山よりも高い日本一に、そして世界へのスポーツクラブを目指す」というのがチーム理念。
ジュビロ磐田と業務提携をしており、下部組織として、磐田ユースに選手を多く輩出している。
クラブ代表の山本浩義は、山本昌邦の弟である。
2013年にはJ3に準加盟が認められるも、成績が及ばず参入にいたっていない。
2014年もJFLで年間8位で、J3昇格にいたらなかった(昇格条件は4位以内)
尾崎瑛一郎(元ガイナーレ鳥取所属)、石田良輔(元大分トリニータ)などの選手が所属している。
中山の背番号は「39」である。
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