あかつき歴男部 桜田門外の変の真相にちょっとだけ迫る!
現在、大河ドラマ・花燃ゆが放送されています。
その花燃ゆでおそらく、序盤の悪役として登場するのが井伊直弼。
桜田門外の変で暗殺された江戸幕府の大老です。
この桜田門外の変は、白昼堂々、大老職という高い身分の人物が葬られるという衝撃的な事件で、幕府の権威が大きく揺らぐ契機になった言われています。
今回は、そんな歴史的事件の真相にちょっとだけ迫ってみたいと思います。
桜田門外の変
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1860年3月3日・雪の日の早朝に起きた事件
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時の権力者・大老・井伊直弼が暗殺された事件
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脱藩した水戸藩の浪士17名と薩摩藩の浪士1名が彦根藩の行列を襲撃
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50名の警護がいたが防げなかった。警護に参加した軽傷者は切腹、無傷の者は斬首だった
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井伊直弼の彦根藩は京都守護職をはく奪。35万石から25万石に減封された
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そのため幕府と距離を置き、戊辰戦争では勤王方についた
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事件後の落首「食べ物の恨みおそろし雪の朝」 「大老が牛の代わりに首切られ」 江戸時代は獣の肉を食べるのは禁忌とされていました。しかし、彦根藩は陣太鼓の皮を将軍家に収めており、牛の屠殺をしていました。例外的に、病気の養生のために薬食いのみ、獣食いは認められていたのです。ですから、彦根藩は将軍家に「牛肉の味噌漬け」を養生薬として献上していました。しかし、井伊直弼の代になると牛馬の殺生を禁止します。井伊直弼は熱心な仏教徒だったのです。水戸藩主・徳川斉昭は牛肉が大好物であったため、使者をたて再三申し入れますが、直弼は拒絶。その食べ物の恨みがつのりつのって、事件が起きたという説が起きました。
参考:桜田門外の変
事件が起きる背景
出典:http://www.historychannel.co.jp
(井伊直弼・従来の強権政治ははもはや時代遅れになっていた)
「太平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」
これは、1853年にペリーが黒船を率いて開国を迫った事件をうたったものです。ちなみに、この黒船に吉田松陰は乗ろうとしたと言われています。
この事件がきっかけで、国内には開国派と外国人を排斥する攘夷派が生まれます(さらにこの攘夷派は、古来の日本の伝統を守り、天皇を敬うという思想に発展し、尊王攘夷派となっていきます。花燃ゆの松下村塾の面々の多くが、この尊王攘夷派の代表的な人物です)。
また、このペリー来航の時、将軍家では14代目を誰にするかで熾烈な権力争いが起きていました。井伊直弼が属する南紀派の推す徳川慶福(よしとみ:紀州藩主、後の14代家茂)にするか、水戸藩の徳川斉昭(なりあき)を中心とする一橋派が押す一橋慶喜(のちの15代将軍)にするかで争っていたのです。
結局、権力闘争は南紀派が勝利し、井伊直弼は一橋派に登城禁止、謹慎などの処分を下しました。
この頃、日米修好通商条約を天皇の勅許を得ないまま調印しました。
このように、一橋派(水戸藩を含む)の処分と、外国嫌いの孝明天皇の意向を無視してアメリカと条約を結んだことが結びつき、井伊直弼への批判が巻き起こります。ここに攘夷派も絡んで、倒幕運動に結びついていくわけですね。
井伊直弼はそのような動きを止めるため、安政の大獄で一橋派、幕府を批判する学者などを弾圧したわけです。
これが契機となり、ついに桜田門外の変が起きたわけです。