川淵三郎 日本サッカーのプロ化に尽力 バスケ改革にも取り組む 人物名鑑
9月6日の23時15分から、TBSの情熱大陸で川淵三郎のバスケット改革への取り組みが放送されます。かつては、Jリーグ誕生に尽力し、今のサッカーの興隆の基礎を作った人物です。
そんな川淵三郎が、今度はバスケットボールのプロ化に取り組み、その第一歩を踏み出しています。
川淵三郎
大阪府高石市出身
1936年12月3日生まれ(78歳)
愛称はキャプテン、サブ
小中学生時代は野球に打ち込んでいた。しかし、遠征で色々な場所に行けると言う理由から、サッカーに転向した。
早稲田大学に入学すると、ア式蹴球部に所属して、日本代表として海外遠征に赴く。この時、ドイツ・デュイスブルクスポーツシューレの環境を目にしたことが、大きな影響を与えることになる。
現役を退いてからは、古河電気工業サッカー部監督に就任。 その監督をやめてからは、仕事に専念して、伸銅事業部の販売課長として活躍した。たたき上げの問屋の社長や番頭相手に、真っ向から営業に取り組み、即断即決で契約をまとめることが多かった。そのため、役員や課長からの評判は芳しくなかったが、取引先の相手からは信頼を得るに至った。
1988年には日本サッカーリーグ(JSL)総務主事の依頼を受けて、引き受けた。これは、サラリーマンとしての道筋が決まり、別の夢を追いかけたかったからである。
JSL総務主事になった川淵は、予算もなく、場末感漂うJSLに幻滅したという。それでも、自らサンドイッチマンとなって宣伝をおこなったり、明石家さんまに頼んで集客ポスターを作成したりしていた。
その後は日本サッカーリーグのプロ化に尽力。様々な紆余曲折、軋轢などを乗り越えて、1993年にJリーグ開幕を成し遂げた。この時はチェアマンとして
”「スポーツを愛する多くの皆様に支えられまして、Jリーグは今日、ここに大きな夢の実現に向かってその第一歩を踏み出します。1993年5月15日、Jリーグの開会を宣言します。Jリーグチェアマン 川淵三郎」”
と宣言している。
「なでしこジャパン」の名づけ親でもある。最初は女子サッカーの支援に消極的だったが、最後までひたむきで、ファウルを受けてもすぐに立ち上がり、フェアプレーを行う女子選手の試合に感銘を受け、サッカー協会として支援することを打ち出した。
バスケットボールの改革に白羽の矢が立つ
日本バスケット界が危機に陥ったのは、2014年の11月26日だった。国際連盟FIBAから、無期限の資格停止処分を受けたのである。この結果、男子だけではなく、女子、ジュニアも国際試合に出場が不可能となった。女子は五輪の出場の可能性も高いだけに、無関係にもかかわらず、不条理な資格停止となってしまった。
ことの発端は、NBLとbjリーグ(2005年に日本リーグ機構から独立)という2つのプロリーグが併存していることにあった。FIBAは何年にもわたり、統一リーグを作ることをうながされるも、しがらみや考えの違いなどから、合併することができないまま、きてしまったのだ。
しかし、国際試合に出場ができない危機的な状況に陥り、川淵三郎に白羽の矢が立ったわけである。
川淵三郎はJリーグのプロ化の経験も踏まえ、5000人規模のアリーナを持つことなどを新リーグ参加の条件にするなどして、両リーグの合併を成立させた。その他にも3年以内に債務超過を解消する、ユースチームを持つなど、将来ビジョンを持つクラブ作りをうながしている。また、会社名をチームに入れることを是とするなど、Jリーグ時とは違った柔軟な態度も示した。
この結果、クラブ経営者の意識もおおいに変わり、地域だけではなく、行政をもまきこむスポーツ運営を促すに至ったのである。当然、日本に課せられた国際試合の出場停止は解除され、8月現在、女子日本代表がリオ五輪をかけて、アジア大会にのぞんでいる。