福原愛 卓球愛情物語
以前卓球は、日本ではマイナースポーツでしかありませんでした。しかし、今では卓球選手がCMに登場し、ゴールデンタイムで大会の様子が放送されるまでになっています。
一つは、日本選手のレベルが上がり、五輪でもメダルを獲得するなど、実力が上がっています。そして、もう一つは、福原愛という少女が現れて、卓球に真剣に取り組むその健気な姿が多くの人の心をうったからです。一人の人物がここまで大きな影響を与えるということはめったにないことです。このページでは、そんな福原愛選手の今までを振り返ってみたいと思います。
福原愛
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福原愛が生まれたのは1988年11月1日です。「愛」という名前は、祖母「愛子」から1文字をもらい、父親が「みんなから愛されるように」という願いを込めてつけられたと言います。そして、その願いの通り、それから4年ほどすると「天才卓球少女」「泣き虫愛ちゃん」としてお茶の間の人気者になりました。
お母さんと共に
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福原愛の母親は、元卓球選手。父親は建設会社の社長をやっていました。福原愛は大のお母さんっ子であり、兄が卓球を始めると、母親がその練習につきっきりになりました。福原愛は母親と一緒にいたい一心で、3歳9か月で卓球を始めます。
しかし、その卓球は極めて本格的なものであり、英才教育という言葉があてはまるほどでした。1日に4時間~5時間という厳しいものでした。練習には500回ずつ、計1000回のラリーを打ち続けて、ミスをするとやり直しというものがありました。卓球に必要な集中力を養うためのものです。この練習では、なかなかうまくいかず、福原愛はよく泣いていました。
泣き虫愛ちゃん
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幼少のころからテレビに出始めた福原愛。彼女の代名詞と言えば「泣き虫愛ちゃん」でした。とにかく練習でも、試合中でも負けそうになるとよく泣いていました。そして、そんな福原愛に母親が諭したり、なぐさめたりという姿がテレビに映し出されました。
個人的に最も印象に残るシーンは、練習中に福原愛が泣きだし、母親が「泣いているなら、もうやめる!?」と怒る場面です。福原愛は泣きながら「やめないで~!」と叫び、再び卓球台に戻る姿です。その姿はテレビではほほえましい、温かな笑いを生み出していました。しかし、その幼いながらに真摯に卓球に向かっていく姿は、言葉にならない尊いものを見せてくれたように思います。きっとこの時は、卓球への愛情よりも、母親への愛情が大きかったのでしょうが、小さいながらに懸命に取り組む姿が、多くの人の胸をうち、心をとらえたのだと思います。
天真爛漫
福原愛が人気を呼んだ理由の一つに、とにかく無邪気だったというのがあります。卓球をやっている姿で映し出されるのは、真剣な表情か、泣いている姿。しかし、練習の外では、あまり人見知りもせず、子供らしい姿でいたずらをしたり、アナウンサーに変な言をいったりします。また、バラエティで明石家さんまとのやり取りなども、お茶の間に笑いをもたらしました。そういう(当然ですが)飾らない姿が、人気を集めたもう一つの理由です。福原愛のキャラクターが愛されたともいえるかもしれません。
天才卓球少女
福原愛の練習の成果は実り、5歳の時に全日本選手権バンビの部(小2以下)で優勝を果たします。この時に「天才卓球少女」というもう一つのニックネームがついてまわるようになりました(マスメディアでは登場時から使っていた)。福原愛はこの大会だけではなく、多くの大会で史上最年少記録を達成。4歳でミキハウスとプロ契約して、仙台から大阪に引っ越しました。この大阪で福原愛の必殺サーブとなった「王子サーブ」も学んでいます(現在は対策が広がり、使用していない)。その後、大阪の小学校を卒業すると、青森山田校に進学します。中学生の時には、日本代表として世界ツアーに出場するようになりました。
夢の五輪へ
スポーツ選手にとって五輪というのは特別なものです。ここでの活躍は、人気や収入にも大きく影響します。そういう意味ではスポーツ人生がかかっています。
福原愛にとって五輪は「夢の夢の夢の夢」と語るほど遠いものでした。この時期の日本代表は低迷期に入っています。しかし、ドーハの大陸予選で3位になり、日本人の出場枠の3枠目を確保します。この実績もあってアテネ五輪に出場。残念ながら4回戦での敗退ですが、五輪に出場したことで今度はメダル獲得という大きな目標ができました。
中国リーグへの挑戦
アテネ五輪後の2005年から福原愛は、中国の超級リーグに2年間の参戦をはたします。超級リーグは卓球王国の中国における最高峰のリーグです。国技並みに人気の高い卓球で、福原愛は中国でも大人気となります。後に、「福原愛永遠支持」「感涙の福原愛 『観客が力くれた』」「みんな福原愛ちゃん大好き」などという表現で、観客の声援を受けたり、メディアに取り上げられるようにもなりました。
また、ニックネームもつき、磁器の人形のようにかわいいという意味で「瓷娃娃(ツーワーワー)」、愛ちゃんという意味の「小愛(シャオアイ)」と呼ばれて親しまれるようになります。福原愛は小さいころから専属のコーチを雇っていましたが、この頃には中国人を雇っていたため中国語を身に着けるのが早かったといいます。流暢に話せる中国語も、福原愛の人気の理由でしたが、やはり、一生懸命戦う姿が人気を呼んだのだと思います。
メダルを目指して…
福原愛はその後、北京五輪をへて、2012年にはロンドン五輪に出場します。そして、平野早矢香、石川佳純と組んだ団体戦では、アメリカ、ドイツを破って、準決勝に進出。福原の対戦相手はシンガポール・シングルス銅メダリストの馮天薇でしたが、見事に勝利します。その勢いもあり3戦連続で日本代表が勝利。決勝では中国に敗れましたが、日本卓球史上初の銀メダルの獲得に成功しました。幼いころから夢にまで見ていた五輪でメダルを獲得したのです。
故障が続く
五輪で夢をかなえた福原愛ですが、その後は、右肘障害の手術、疲労骨折と体の故障が目立っています。夢をかなえるまで我慢してきた痛みであったり、疲労が一気に出てしまうことがあります。この後、福原愛は2015年には世界卓球に出場するまでに回復しました。
長嶋茂雄から見た福原愛
過去におもしろいドキュメンタリーがあり、福原愛の幼少からアテネまでを振り返る番組がありました。そこでゲストとして来ていたのが長嶋茂雄です。当時は一時期、巨人をやめてコメンテーターとなっていた長嶋監督は、時に目を潤ませながら、その映像を見ていました。
特に印象に残ったシーンは、福原愛が世界大会で、思うような結果を出せずに、父親に激怒されるシーンです。この時、福原の消極性を叱った父親でしたが、長嶋監督は別の見方をしていました。違う技術を試そうとして、結果がともなわなかったのではないかと感想を述べたのです。そして、その映像で長嶋監督を涙させたのは、父親に激怒され、肩をふるわせて泣いていた福原愛が、しばらくすると大会会場の別コートにある場所で練習を始めたところです。その、ひたむきさ、健気さが心を打ったのです。
「すごいですねぇ。予習、復習はもちろんこと、常に反省する。反省の中でも、正確に足元を見ながら、また新たに挑戦をする。すがすがしさの中にも、スカッとした何かを感じる」と称えています。
福原愛を育ててきた母親は、「自分の代わりに夢をかなえてくれている」としみじみと述べています。
哀しい結末を乗り越えて…
泣き虫愛ちゃんとして知られる福原愛ですが、物ごころつくころには、人前で涙を見せることはほとんどありませんでした。その代わり、一時、悲しげな表情をすることが多くなります。あまりの注目度で、行く先々に人が集まり、疲れなども出たのではないか…そんな見方がされていました。一時期は「自分を追い掛け回すメディアが嫌になった」と語っています。
しかし、実際のところ、それだけではなかったようです。福原愛の父親は福原産業という建設関係の会社を運営していました。しかし、商売がうまくいかず、福原愛の収入に頼るところが大きかったようです。一説には借金が1億円以上にもふくらみ、自己破産したといいます。ですので、福原愛の過剰なメディア露出にはそういった家計の事情もあったようです。当時、人気者だった福原愛には相応の収入があったはずですが、すべて借金返済に消えてしまいました。会社の代表を務めていた母親も自己破産を宣告されたとも言われています。そのため、福原愛は、数年ごとにスポンサー契約先を変えるなど、不安定な環境に陥っていました。
このような状況にあり、2004年に両親は離婚。父親は家を出て、2キロ離れたアパートに一人暮らしをするようになりました。そして、2008年ころからは、福原愛は父親と会うこともなくなりました。福原愛のマネジメントはその後、母親と兄で行うようになりました。2013年には父親がすい臓がんで他界。その時、福原愛はFAXで「2008年の終わり頃を最後に一度も会っていない状態にありました。以後は電話やメールでのやりとりも、一度もない関係となりました。そのような仲でしたが、父がいなければ、私は生まれてくることもなかったですし、今の成長した私があるのも、多くの方々が応援してくださる環境があることも、父の影響によるものが少なくありませんでした。そういったことについては、父に感謝しております。」と語っています。
この家族について、中国リーグ時代にインタビューで「あなたは家族の家計をすべて背負っているが、大変ですね」と言われ、泣き出してしまったと言われています。
悲しみ、その先に…
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以上、福原愛選手について振り返ってみました。福原選手のすごさは、幼い時から注目を浴び続けながらも、そのプレッシャーを乗り越えて、極めて世界的に相手が強い状況の中で、五輪でメダルを獲得したことです。また、家庭の事情などもありましたが、つぶれずに戦い続けた点もすごいのではないかと思います。そして、何より大きな功績は、彼女が幼いころから、テレビに出続け、卓球を世間に認知させたことで、日本の卓球界に大きな恩恵をもたらしたことです。そういった功績は後々まで、語り継がれることでしょう。
また、笑顔を大切にする福原愛選手ですが、そんな彼女が乗り越えてきた出来事を知って彼女のプレーをみれば、より豊かな観戦ができるように思います。最後にそんな福原愛選手が、五輪後に、子供に向けて語りかけたメッセージを紹介してこの記事を終わりたいと思います。
”私は今回の五輪で、頑張って続ければ夢は本当にかなうのだと実感しました。メダルを取るまでに20年、日々の小さな積み重ねが、この結果を生んだのです。よく、「戻れるならいつに戻りたい?」と聞かれますが、私は「いつにも戻りたくない」と答えます。それぐらい毎日、一瞬一瞬を100%でやってきたから。
だから子どもたちにも、今しかできないことを精一杯楽しんでほしい。大人になった時に、「あの時にもっとこうすればよかった」と後悔しないように。それがきっと、夢の実現につながるのだと思います。”