清原和博が四国巡礼の先に見るもの…
2014年には数々のスキャンダルが週刊誌、スポーツ新聞をにぎわせた清原和博。離婚も経験し、周りからは人も離れていき、一時は「息子がいなかったら、生きていなかった」というほど、追いつめられたと言います。
そんな清原ですが、自分を見つめるために、四国巡礼を行っているようです。巡礼の先に、清原が見据えるものとは何なのか、彼のプロフィールと共に記事にしています。
清原和博
大阪府岸和田出身
1967年8月18日生まれ
188㎝/104㎏
本塁打数歴代5位
通算打点歴代6位
サヨナラ本塁打歴代1位
通算死球・三振数歴代1位
電器店を営む家に生まれる。
父親が阪神ファン、その他の家族は巨人ファンだった。
小学生の時に岸和田リトルリーグに入団。この頃は祖父に、練習に行くたびに100円をもらっていた。
小学生時代はエースで4番だった。
30校近いスカウトに声をかけられ、選んだ高校はPL学園だった。
入学して桑田の投球を見ると、投手をあきらめ、野手に専念することになった。
清原は桑田とともにKKコンビと呼ばれ、1年生からレギュラーとなり、4番として5期連続で甲子園に出場をはたした。甲子園では1年生の夏、3年生の夏に優勝している。
高校通算本塁打は64本(甲子園では13本塁打)
甲子園では大差がついた試合で、投手として登板したことがある。
練習に対するエピソードとして、甲子園で唯一、決勝に進めなかった3年春、その日の夜の室内練習場でただ一人、バッティングを黙々とこなす上半身裸の清原の姿を監督が目撃している。
卒業後のドラフトでは、清原を6球団の競合の末、西武が清原を指名した。 清原は巨人ファンであり、地元の阪神か巨人を熱望していたが、はたせずに悔し涙を流した。また、同級生の桑田が大学行きを表明していたにも関わらず巨人に指名され、大きな溝を生む結果になった。
背番号「3」で西武に入団すると、ルーキーイヤーに31本塁打、打率304、打点78という記録を残し、高卒新人として数々の記録を打ち立てた。
森祇晶が監督にあって9年間でリーグ優勝は実に8回を数え、西武黄金時代を迎える。その時に4番に君臨し続けたのが清原だった。
1996年にFA宣言して、巨人に入団。
1997年には打率249、32本塁打、95打点という成績だったが、勝負所での凡退も目立ち、応援コールがやむという事態になった。この年、優勝も逃している。
1998年には打率268、23本塁打、80打点だった。また、この年から下半身に故障を抱えるようになる。
1999年は236、13本塁打、46打点。
2000年は296、16本塁打。この年にモデルの木村亜紀と結婚している。
2001年は怪我もなく順調な年となり、打率298、29本塁打、121打点という記録を残して、契約が4年延長された。
2002年は318、12本塁打だったが、怪我で55試合の出場にとどまった。
2003年も故障が続いたが、打率290、26本塁打を記録した。
2004年には出場機会が減少して、228、12本塁打という低迷した成績だった。
トレードでの放出騒動などもあった2005年は清原は大きく低迷した。打率は212、本塁打は22本。
2006年には仰木彬に熱心にスカウトされて、オリックスに入団した。というのも、仰木は近鉄時代の1988年に、10.19の死闘を清原のいた西武と行い、敗れている。その年、日本シリーズで優勝した清原が、「これで近鉄の選手の皆さんに顔向けができます。」と語ったことがある。それを見て、その男気に感動したというのが理由である。仰木彬はその後、病気で他界している。清原は仰木彬を「野球界で最も尊敬する人物」であると語っている。
2006年は67試合に出場、打率222、11本塁打。
2007年は怪我で出場なし。
2008年は22試合に出場、打率182、0本塁打となり引退となった。
引退後 スポーツ新聞の専属評論家となり、最終的には監督になりたいという抱負を持って活動を始める。
しかし、その後は離婚、糖尿病、また、週刊誌をたびたびにぎわすスキャンダルなどネガティブな報道が多くなった。
あるTV番組では「息子がいなかったらこの世にはいなかった」というほど、追い詰められた時期があったことを語っている。
お遍路からの再起
お遍路というのは四国霊場八十八カ所を巡ることをいいます。このお遍路は四国巡礼などと呼ばれることがあちます。四国にある空海(弘法大師)ゆかりの88カ所の寺院を巡り、身を清めたり、気分を一新するなど、様々な理由で行われているようです。かつては、修行者、僧侶、庶民、窮民などが、祖霊供養、宗教心を深めるために行っていました。
清原の場合には「区切り打ち」という数回に分けて、行程を行うやり方で、四国巡礼を行っています。
2014年の3月に離婚し、週刊誌をにぎわせ、仕事が激減。自暴自棄になりながらも、二人の息子がいることで、生きていられるという清原は、自分を見つめなおすため、巡礼を行っています。
TV番組で野村元監督が話した”「清原マイナス野球イコール、ゼロ」”という言葉が響いたという清原ですが、お遍路を行う中で、色々な発見や思い出すこともあるようです。
例えば、道端のつつじの花を見て、”「この花を見ると、おばあちゃんの家を思い出す。プロ野球選手になりたいと夢見た小学生時代の匂いがしてくる」”というように、気持ちも和らいでいます。
”「現役時代、両親が2度も歩いてくれた。そのお母さんが体調を崩していて、病気を患っている友人もいる。僕は2人のために頑張りたかったし、自分自身の修行でもある」「ざんげの念を深めている」「応援してもらって当たり前と思っていた。もっと家族や周囲への感謝の気持ちを大切にしなければいけなかった」” このように巡礼の目的を語ると共に、後悔の念を持ちながら、歩き続ける清原。
菅笠、白装束、金剛杖を身にまとい、故障した左足をひきずりながらの道中です。当然、巨体の清原は人目に付き、数十メートルごとにサインを求められる状況ですが、その多くに対応しています。
そんな清原が目指す先には、やはり野球があるようです。
”「(息子2人と同年代の)子供たちがプロ野球選手になるころ、僕はやっぱり監督になって経験を生かしてみたい」と思いを明かし「その時にどんな色を出せるのか自問自答している」”
と、語りました。
再び清原が野球界に戻った時、ファンにどのような姿を見せるのか……今はまだ、清原の巡礼の旅が続くようです……。
コメント出典:清原氏「お遍路」に密着 全てを失い、道中で深める「ざんげの念」/
清原氏 断ち切れぬ指導者への思い「僕はやっぱり監督になりたい」